2021-03-24 第204回国会 衆議院 経済産業委員会 第3号
この結果によりますと、北海道につきましては、ただいま御指摘ありました胆振、日高地域を含む道内全域が、旅行客の五割以上が宣言地域から来訪している週が存在する地域に該当しております。したがいまして、北海道に所在する旅行関連事業者につきましては、この分析結果を保存書類としていただくということが可能となっております。
この結果によりますと、北海道につきましては、ただいま御指摘ありました胆振、日高地域を含む道内全域が、旅行客の五割以上が宣言地域から来訪している週が存在する地域に該当しております。したがいまして、北海道に所在する旅行関連事業者につきましては、この分析結果を保存書類としていただくということが可能となっております。
こういうことで、今考えられることをしっかりやらせて、国交省としてもそれはしっかり見守りながら、変わることは御不便がかかってしまうかもしれませんが、なるべく日高地域の皆様の生活の足が維持できるように、できる限りのことは対応させていただきたい、こう思っております。
二月七日というのは北方領土の返還要求全国大会の日でもございまして、非常に大きなテーマでありますので、私も東京におって、大会にも出席させていただいて、それはそれでまた別の機会に取り上げさせていただくんですけれども、そうした取組をしているさなかに、地元紙に大きく報道されたことを受けて情報を集めて、私も早速地元に帰りまして、国会開会中ですので週末しか入れませんから、九日と十六日、十九日と三回にわたって、日高地域
私どもの把握しております数字によりますと、北海道日高振興局の調べによりますと、日高地域の軽種馬生産専業経営のうち七五%が負債を抱えていらっしゃいまして、その負債を抱える農家のうち四五%は一経営体当たり五千円を超える負債があるということで、軽種馬生産経営は厳しい状況にあるというふうに認識しているところでございます。
今御指摘がありましたように、軽種馬生産は競馬事業の一翼を担う重要な産業でございまして、先ほど申し上げましたように、北海道日高地域においては基幹産業として地域経済を支える重要な位置づけにあることから、引き続き政府一体となって交渉に全力を尽くしたい、こういうふうに考えております。
特に、今御指摘のありました軽種馬生産の八割を担っている北海道日高地域では、軽種馬生産というのは基幹産業として地域経済を支える重要な位置づけにある、こういうふうに考えております。
日高地域の軽種馬生産専業農家の負債状況というのがございまして、六百四十九戸のうち五百五十戸が専業ということでしょうか、そのうち負債があるところが四百十一戸、その中で五千万円以上負債があるところが百八十五戸ということで、四五%に上っている、こういう状況でもございますので、こういうことの厳しい状況というのは先ほど申し上げたとおりでございます。しっかりと振興してまいりたいと思っております。
この結果、我が国最大の馬産地である、今お話しいただきました北海道日高地域の軽種馬生産者の経営、これが非常に厳しい状況になっていると、こういうふうに認識しております。
さて、それでは、日高地域。私が先ほどからちょっとお話をさせていただいておりますけれども、生産の主たる産地であります北海道の日高地方でありまして、明治以降、新冠の御料牧場、また日高の種馬牧場が整備された歴史がありまして、農業経営の規模拡大が困難な土地条件等もありまして、軽種馬生産に特化するということで、この地域の生産性を高めてきているわけであります。
○鹿野国務大臣 軽種馬生産農家は、平成二十二年度現在で一千六十七戸、そのうち八割が北海道日高地域に存在している、こういうことでございます。日高地域の軽種馬生産を専業としている農家のうち九割が負債を抱えておる、そのうち四割は一戸当たり四千万円を超える負債があるという大変厳しい状況にあることも承知をいたしております。
しかし、公共事業、本物のというか本当に重要な事業というものはこれからも進めていかなければならないと思いますし、そして進め方においても、民間の知恵とか資金というものをうまくリードできるような、そういうやり方というものも考えていく必要があるんではないかと、そのように思っておりまして、私も、愛媛県以上にある意味で、北海道日高地域、極めて過疎の町がたくさんございます。
回復期リハビリテーション病棟は、平成十二年十二月、北海道内の第一号の認定を受け、平成十五年八月には、東胆振地域リハビリテーション推進会議の事務局病院として指定、平成十六年七月、日本リハビリテーション医学会研修施設に認定、今年一月には、日本医療機能評価機構のリハビリテーション付加機能の認定を全国七番目、道内二番目で取得するなど、東胆振地域、日高地域におけるリハビリテーションの中核病院としてリハビリ機能
それからもう一つ、この地域に、日高地域の中に三石町というところがあります。ハルウララの出身地なわけですけれども、この三石町はずっと競馬馬、競走馬を生産しているところなんですけれども、今、そういう一定の転換なんかも掛けながら黒毛牛のブランド化に取り組んで、一定成功してきているんですね。町が営農研修センターを立ち上げて熱心に販売面まで含めて援助をしているんです。
それから、私、昨年の台風十号が北海道を襲ったときに、この地域も、日高地域も非常に大きな被害を受けたんですが、そこに行ったときに、それこそ牧草の上にも流木なんかがどっと流れ込んで大変な事態だったわけです。このときに軽種馬の生産地、生産者団体を訪問したんですけれども、災害復旧については、軽種馬では農地とみなされない部分があるんだと。
しかし、このルート、これは効率的な林業経営、あるいはまた森林の適切な保育管理等、先ほど使われていないと、いろいろなお話もございましたが、やはり日高地域のこれは幹線という面での使命があるわけでありまして、地元からも復旧工事が三月十九日に着手がされた、こういうわけでありまして、これらの復旧後の効果、もうこれが発揮できるように私どもは是非進めてまいりたいと、こう思っております。
それから、水道でありますけれども、水道も、特に日高地域は沿岸に国道があって、そこから要するに競馬馬を産地としているところが圧倒的に多いんですけれども、どんどんどんどん国道から道が奥へ奥へ入っていって、それで奥の途中でバイパスのように道路がなっていると。つまり、こういう感じに、コの字形に道路が付いているという状況なんです。
元々、この日高地域というのは農林漁業で発達してきたところです。しかし、この農業も漁業も非常に厳しい今、現状にあります。農業の六七%が軽種馬の競走馬を育てる産業ですけれども、かつて、今、馬も売れないんですけれども、賞を取ったようなそういう牧場を、有名な牧場なども倒産するという事態になっていて、最近も一家心中という本当に痛ましい事態になっています。
○辻(第)委員 三日前の三月二十一日に、北海道の日高地域を中心としてマグニチュード七・三、そして浦河地域では震度六という地震が発生しました。大変な被害が出たわけでありますけれども、私は、まず最初に、負傷された方、被害を受けられた方に心からのお見舞いを申し上げて、質問に入りたいと思います。
この日高地域からは池端先生だとか高橋先生だとか優秀な人が出ておるわけですよ。わが党にも野村君というのがいる、ここのところ落選しておりますけれども。こういうところでありますから、これは総裁がぜひ行って現地調査して、そうしてなるべく早くやる。漁業補償もなしに安くやろうというような考え方がいまのところ国鉄にはある。
これらの生産は地域的に見ますと、北海道の特に日高地域が中心になりまして、この地域だけで全生産頭数の約七〇%が賄われております。ほかの三〇%は北海道の胆振そのほかの地域、それから青森県、千葉県、鹿児島県、こういった地域でもって出産されているわけでございます。 これらの生産を担当しておりますところの軽種馬生産農家は約三千戸でございます。
○井上(泉)委員 そこで、河川関係で、高知県の災害の調査団の団長の報告の中にもあったように、宇治川の水も仁淀川へ流すようにする、あるいは日高地域の水も隧道を抜いて仁淀川へ流す、こういうことになると、さなきだに水量が多く、そして堤防が弱い、そういう中で仁淀川に多量の水が入ってくる、その多量の水が今度は逆流して波介川という川から土佐市内全体に浸水をするわけなので、そこで土佐市の市民の人たちは、そういう水
特に北海道の場合、日高地域ですけれども、この日高地域では全国生産の七〇%を占めているわけです。軽種馬生産農家というものが全農家に占める割合というのが四十八年には三四・六%を占める、全農家の三分の一以上を占めているということです。また生産額でいっても四十八年が二百十四億八千百万円だった。
先ほどお話しありました軽種馬の生産地のうちの一つである北海道の日高地域は、全国の軽種馬生産の約六〇%を占める現状でありまして、この日高管内の重要産業の基盤となっておりますし、また一つは過疎地域ということから見ましても、過疎化の問題から見ましても、北海道の場合過疎地域指定の多いところでありまして、この日高管内も、昨年は二つの町村が指定されておりましたけれども、本年になりましてさらに四カ町村過疎指定地域
三日、釧路市港湾及び釧路漁港魚市場等を視察して 帯広市に至り、奥山十勝支庁長及び管内町村長並びに農林諸団体より管内農業振興対策について説明を開き、日本甜菜製糖株式会社帯広製糖所及び道立農業試験場十勝支場を視察し、四日は浦河に至り日高支庁を訪問、佐々木支庁長より日高地域開発促進について陳情を受け、札幌市に戻ってきたのでありますが、この間北海道をくまなく走破すること実に二千百キロにも及ぶ強行軍でありました